第二章 『マユと桑子』④

 五年程前 『叶虎』のダンスホール。中に入ると、奥のステージで奏者は、ジャズを奏でており、それに合わせて若い男女が手を取り、社交ダンスを踊っている。

(凄く風紀が乱れている……)

 こんな場所に姉が通っていたという事に、留吉は呆れ、溜息が自然に零れ出るのだった。

 常設されたバーでは、休憩する為のカウンター席があり、バーテンダーが客にカクテルを出していた。皆に悟られぬように、恋人が口づけしているのも、バッチリ目に入る。

 そこには洋装に身を包んだ留吉、同僚の宮司、勇五郎の部下佐倉の姿があった。

 彼らは楽器ケースをそれぞれ持っており、傍から見れば、授業終わりの音大生か、それか、このダンスホールで雇われているキャストに見えることだろう。

「いやぁ、留吉君。今日は誘ってくれてありがとうね」

 佐倉は徹夜明けなのか、目の下にクマを作っており、凄くこの場所に不釣り合いで、帰って眠ったほうがいいのではないかと思うくらいだ。

「先輩、徹夜明けですか?勇五郎大佐は、定時でいつも上がらせるでしょう?」

 宮司はそう言い、仕込み刀が入ったステッキを大事そうに抱えている。

「いやぁ、昔の事を思い出したら、眠れなくなっただけ。あのポンコツな伍長の顔を思い出したら、アドレナリンがドバドバと――」

 彼の瞳はギラギラと獣のようで、目の下のクマが拍車をかけて、迫力が増していた。

「昔の上司の事思い出して、キルモードにならない。後、抗鬱剤の量、見直して下さいね」

 宮司は聞かなきゃよかったという顔をし、頬を掻く。

「で、橋本少尉、どちらが例の方なんです?」

 佐倉が壊した雰囲気をどうにかしたい宮司が、留吉にそう話を振る。

「いや、自分も会ったことが無いんだ」

「「え?」」

 宮司と佐倉は、驚いた声を出す。というのも、今回留吉達は、留吉の姉『マユ』の婚約を破棄するにあたって『日猿木 悟』に挨拶をしにきたのだ。

「特徴は?背丈は?雰囲気は?」

「姉に聞いても、あまり情報が出なかったというか……いつも和装で……見たら分かると」

「お姉さん、結構適当な人ですね……」

 宮司はそう言い、周囲を見渡すが、若い人間がごった返しており、よく分からない。

 というのも、このダンスホールはカップルだけではなく、ナンパ目的の大学生らも来る為、一人で来ているものも多いのだ。すると、佐倉が口を開く。

「声とかは?電話で待ち合わせしたのでしょう?」

「いや、それは姉が……」

 留吉はいつも堂々としており、どちらかといえば図々しい人間なのだが、こればかりは少々ばつが悪そうである。

「霊力が高いと聞いていたから、二人なら分かると思ったんだけど」

「あー、なら簡単だよ」

 そう言うと佐倉は、目を凝らし、周囲を眺める。すると、鷹色の瞳の中に微かに翡翠色の粒が浮き始めた。霊力の強い人間は、体から出ている霊力や、付いている神が見えるという。

 そして、瞳孔が大きくなったり、小さくなったりしだす。それはまるで、カメラのピントを合わせるようだった。

(俺には、分からないが……)

 留吉はそう思いながら、佐倉を見ていると、彼が声を出した。

「あの人じゃない?あの洋装の……」

 留吉は彼が見ている方に視線を向けると、そこに簡易的なテーブル席があり、洋装の若い男性の姿がある。手足が長く、背が高い事が遠目からでも分かるだろう。ウイスキーが入ったグラスを時々、口にしながら、踊っている男女をつまらなそうに眺めていた。

「あいつかもしれない」

 聞いていた情報では、和装の男性だと聞いていたが、彼は今、洋装に身を包んでいる。

 留吉はそう口にした後、佐倉に自身の楽器ケースを渡す。

「中に俺の斧が入っているから、もし戦闘になったら渡してほしい」

 そして、留吉は彼の方に向かい、声をかけた。

「あの――ひさる……いや、悟さんですか?」

 苗字を思わず言いそうになったが、人が多い事を思い出し、下の名前で留吉は呼ぶ。

「そうですけど……どちら様ですか?」

 悟は先程の気が抜けた顔から、神経質そうな顔に切り替わり、ジャズの音で緩和されているが、雰囲気は凄く鋭く、尖っている。

(あー、こいつ。嫌いだわ……)

 留吉は笑顔を作っているが、その表情は引きつっていた。

「自分は『橋本 マユ』の弟で、姉から伝言を預かっているんですけど」

 そう言うと、彼は深い溜息を吐き、目の前の席に手を向ける。

「どうも……」

 留吉は彼の前の席に座り、気まずい雰囲気に耐えられず、こめかみを掻くのだった。

「マユさんと会う約束したのだけれど……マユさんは来てないの?」

 彼は少し、周囲を気にしているというか、マユを探しているようだ。

(姉もだが、こいつも中々だなぁ……察しが悪いというか、頭お花畑というか……)

 恋愛の事で盛り上がって、他は眼中に無いと、留吉は呆れていた。

「自分が来たという事で貴方も察しているでしょう?」

 馬鹿じゃないんだからと、留吉は近くの灰皿に手を伸ばし、自分の元に近づける。

 煙草とライターを取り出し、吸いだすと、悟が少し咳き込み始めた。

 留吉はそれで察して、煙草の火を消す。

「失礼。苦手な人間が身内にいないもので――」

「げほっ――いや、大丈夫。自分の体が弱いだけ……君はいいね、体が丈夫で。軍人さんなんだっけ?マユさんから聞いているよ――」

 悟はそう言い、ハンカチを上着から取り出し、口に当てる。

(こいつ、大丈夫か。体が弱そうだ……)

 隔離病棟にでも突っ込んだほうが、いいのではないかと留吉は思うが、彼はそんな留吉の内心は知らず、言葉を長々話始めた。

「君の体は本当に良い。健康そのものだし、腕や足もたくましいし、体力もある。後、霊力がないから何からも干渉されない」

 その言葉は気味悪く、留吉は嫌な気持ちになるのだが、彼にはそれが届かない。

「君には分からないと思うけど。霊力が強い人間は、体の方が神様側に引っ張られるようで、あまり強くないんだ。特に自分はそうで、長生きできるかも怪しい」

 急に彼が聞いていない話をべらべらと話すので、留吉は一線を置く。

「だから自分は、自由に恋愛したい。マユさんを選んだのもそう、あの子は特別、着飾っていないし、絶世の美女という訳でもない。でも、彼女以上の存在は、もういない」

 愛していると、悟がそう言い、目の前にある酒を少し口にした。

 それはかなり美談で香ばしい話だが、他人ならともかく、身内の人間にはそれは通じない。

「いや、勝手に約束して、その後始末を弟に任せる姉ですよ。貴方が夢見ている理想の人間ではない――」

「それは女の子なんだから、多めに見るよ」

 彼は華族のお坊ちゃん、いや、王子様のような立場で、マユは身分的に結婚できないのだ。

 国や政治を動かす立場の華族が、庶民の娘を妻として迎え入れる訳がない。

「まぁ、貴方の意見は分かりました。それは嘘偽りもない事もね。でもね――」

 留吉は冷静に彼に語りかける。

「姉は貴方と婚約破棄したがっている。いや、婚約も口約束だ。だって、貴方の家は皇帝の家系にも、混じっているくらい、高貴で素晴らしいはずだ。もし、なれても妾でしょう?」

 すると、悟は言葉を詰まらせ、黙り込んだ。

 先程の流暢な話し言葉が、数秒間、出ずにいたのだが、彼は言った。

「でも、本妻を取らなければ、もし仮に取ったとしても、子供を作らなければ、マユさんが本妻のようなものでしょ?」

 その言葉は庶民出身の留吉には理解できないものだった。

「貴方には、庶民の気持ちは一生分からない」

「そう……凄く残念だ」

 そう彼が言うと、周囲の人間達が皆、留吉達に視線を向ける。

「な、何?この人達……」

 操られているのだろうか、彼らの視線は焦点が合っておらず、男女関係なく、身に着けた衣類から拳銃を、ステッキから仕込み刀を抜いた。

「おいおい、マジかよ……」

「本当はマユさんがいたら、殺してでも連れて帰ったのだけど、なんか君でいいや。流石に弟が死ねば、それどころじゃなくて、戦地に行かないでしょ?」

 霊力を含んだ瞳が、怪しく光り輝き、鳶色から緑色に変色した。その姿は少し、いや、かなり狂気じみているように、留吉も宮司も佐倉も感じ取る。すると、刀を持った男性が宮司に切りかかり、彼は間一髪でその攻撃を避け、自身が持っている日本刀を抜いた。

「操られた一般人なんだろうけど、攻撃されたら許さないよ」

 宮司の瞳が悟と同じように霊力で青く変色し、持っている刀の刃も瞳と同じ色に変色した。

「自分にも軍人として、プライドがあるからね」

 そう言った宮司は、攻撃してきた男性達に刀で反撃し、刀を持っていた手首を切り落とす。

 血しぶきが周囲に飛び散るが、正気に戻る様子はない。

「え?マジ?」

 その様子にひるんだ宮司を、大量出血しているだろう手のない腕で殴り掛かってきた。

「ぐぇっ――」

 宮司の頬に強い衝撃が伝わり、血がべったりと付着する。

「うへぇ……ばっちぃ……目に入ったかも……」

 そう呟く宮司は、両目と頬に付いた血液を手で拭う。そして、それを見てみると、少しずつ視界が揺らめき、両目に激痛が走り、視界が真っ暗になる。そして、宮司の足元に何かがズルリと音を立て、落ちた。目が見えない宮司は、何が落ちたのか分からないが、その光景を見ていた留吉、佐倉には彼の足元のそれが分かるだろう。

 それは宮司の両目であり、先程血が付着した肌も、溶け始めており、目同様ずり落ちるのも、時間の問題だと理解する。そして、二人は思う。陸軍の冷蔵室に、彼の血液と脂肪が保管してあったと記憶しているが、欠損する箇所が多ければ、治癒呪文を使っても、回復が困難であったり、後遺症が残ることだろう。

「お友達、困っているようだね」

 それを見ていた悟がそう言い、怪しく微笑む。

「君、僕に庶民の気持ちは分からないと言ったね?」

 彼はそう呟き、留吉の顔に自身の顔を近づけた。

「そうだね。その通りだ」

 彼の瞳は霊力を秘め、星のように煌めいている。

「こいつ!」

 留吉は声を荒げ、上着のポケットから南部式拳銃を取り出し、目の前の彼を撃ったが、その直後、彼の容姿が中年の男性に変化する。眉間を打ち抜かれた中年の男は眼球の黒目がそれぞれ、限界まで左右を見ており、絶命している事が分かった。

 身代わりの術か、それともこの場にいないのか、それは誰にも分からない。

「霊術の一種か!何所に行った!」

 留吉はそう言い、周囲を見渡すが、洋装の人物が多く、すぐには見つかりそうにない。

 そんな中、感覚で刀を振っていた宮司に、洋装の男性が日本刀で切りつけようとする。

「宮司!」

 留吉は声を出す、彼に駆け寄ろうとするが間に合いそうにない。

 刀が振り下ろされた時、佐倉が歩兵銃でその攻撃を受け止め、片足で敵の腹を蹴り飛ばす。

 その光景を見て安堵した留吉が、佐倉の方を見ると、彼は五十年式歩兵銃を持っており、何人か仕留めているのか、周囲に死体が転がっている。

「俺は少尉だぞ。俺に指示していいのは、それ以上の階級だけだ――」

 そう言い、転がった男性の後頭部をゼロ距離で、射撃し、操られ、何度でも立ち上がっていたそれは、それを機に動かなくなった。

「俺に逆らうからだぞ。そのうち、あの伍長もこうしてやる――」

 そう呟く佐倉の瞳は、ここに来た時よりもバキバキで、悟よりも狂気じみている。

「先輩、目が痛いです。痛い――」

 宮司は目が見えない為、手探りで佐倉を探るが、例の血が付いている為、彼は距離を取られた。

 彼が話しかけた事で、佐倉の表情は少しだけだが穏やかなものに戻っていった。

「――あぁ、今はめてあげるよ。えーと、目玉は……」

 佐倉はそう言い、落ちたそれを探るが、見当たらない。

 先程、転がした男性を避けると、腹の下で潰れ、ドロドロに溶けていた。

「――とりあえず、酒で目の穴を洗おうか、血で汚れているし」

 気休めに近くにあったテーブルからジンが入った酒瓶を宮司にかけ、血を洗い流す。

「先輩。何か隠しましたか?」

 そう言う宮司だったが、周囲の敵が背後から迫ってくるのだった。

「あっ、宮司。ごめん、敵が来た」

「えぇっ!ちょっと!」

 そう言った佐倉は宮司の体を持ち上げ、敵にぶん投げた。

「どりゃやああああ!」

 宮司の体は数人の敵に当たり、次々と薙ぎ倒す。

「あああぁぁぁ!」

 そして、彼の体はカウンター席の後ろにある酒瓶が入った棚にぶつかり、やっと止まる。

「ぐえっ!」

 だが、その衝撃で、カウンターからキープボトルが落ち、宮司の腹や頭にぶつかり、彼は意識を手放した。

「留吉君、これを!」

 佐倉はそう言い、持ってきた楽器ケースを留吉に渡し、留吉はそれを開け、愛用の斧を取り出す。

 血が触れれば、宮司と同じようにその部分が溶ける。

(血をあまり出さずに、始末しないと……)

 たまたまだが、刃が小さい斧で良かったと留吉は思う。

 斧を振り回し、向かっている人間の頭や額に致命傷を与え、その場に転がした。

(頭に致命傷を与えた奴らは起き上がらないが、血液が厄介だ……)

 もし霊術で操られて、体を変異されているのであれば、操っている悟を始末するのが、手っ取り早いだろう。すると、少し離れた場所からクスクスと笑い声が聞こえ、留吉はその方向に視線を向ける。それは、二階にある吹き抜け席からで、上着を着ていないシャツ姿の男性が留吉を陰湿そうに眺めている。

「あいつ、殺してやる……」

 そう言い、斧を構え、二階に上がる階段に向かうと、彼が何か呪文を唱えている事に気が付いた。その時、ダンスホールに設置されていたラジオが、誰も触れていないのに電源が入り、歌謡曲が流れ出した。

「ふふっ。先生、よろしくお願いします」

 悟がそう呟くと、流れ出した歌謡曲にノイズが入り、雑音が周囲に響き渡り、留吉の瞳に違和感が出始めた。瞳と瞼の間に何かが這いずるようなそんな感覚で、視界の視覚、具体的には黒い部分がどんどん広がり、最終的には見えなくなっていく。

(何だ?この術は……)

 宮司は血が付着し、その部分が腐り落ちた。

 留吉の場合は、皮膚や眼球はそのまま、視界が悪く、闇に包まれる感覚だ。

 という事は、宮司と違う術か、それよりも強い何かが関わっているかのどちらかだろう。

 そう留吉が考えていると、彼の背後にいる男性が野球用のバットを大きく振りかぶる。

 だが、訓練されている軍人には、素人の攻撃は気配で分かるようで、彼の攻撃を避け、服を掴み、敵集団に投げ飛ばした。それを見ていた悟は、不機嫌そうな顔をする。

(アイツ、しぶといな……視力を無くしたはずなのに……先生の力を高めて、とっとと始末しよう……)

 霊力が強い代わりに体が弱い悟からすれば、真逆な留吉は、規格外、狂人でしかなく、とても忌まわしく感じるのだった。

【なぁ、四男坊】

「ん?何でしょうか?」

 悟の背後にどす黒い何かの影が存在した。

 彼は悟の事が気に入っているのか、手を肩に置き、親しげに話しかけている。

【あの男は何だ?】

 黒い影が下にいる留吉を指差す。悟がその方向に視線を戻すと、留吉は気配を頼りに、攻撃してくる人間に斧の刃を振り落としていた。

「本当にしぶといなぁ……とっととくたばれが良いものを……」

 そう言う悟の瞳が怪しく光り、少し離れた場所にいた人間が拳銃を留吉に向け、発砲した。

「うぐっ――」

 それは左足に当たり、留吉はよろめく。

「全く……全部、マユのせいだ……戻ってきたら、説教しないと……」

 そう言い、撃たれた場所に留吉は手を添える。すると、その手のひらに青白い光が溢れ、傷が内側からふさがり、中に入っている弾丸が外に出され、音を立て床に落ちた。

(あまり使いたくなかったんだけど……)

『麒麟先生に力を貸してもらったのなら、お礼に行かないと』

『ほら、留吉も頭下げて――いやぁ、先生本日もお美しいですな』

 留吉の脳内に実父勇五郎の話声が流れ出すのだった。

「何、あれ……視力も回復するんじゃ……」

 その留吉の回復術を見ていた悟は、吹き抜けの二階席で声を漏らす。

【いや、私の術は複雑だ。すぐ解けるものではないぞ】

 悟が少し複雑そうな顔をしていたが、悟の後ろの誰かが興味を示した。

【あの子、霊力は無いに等しいが、凄く強いものと契約しているな。面白い、力試しがしたい】

「でも、彼の精神を貴方の所に送っても、彼が契約している者が出てくるか分かりませんよ」

【それでもいい。今回出てこなくても、後々出てくるだろう】

 悟の後ろの誰かは、やる気満々である。

 悟は面倒そうな顔をしながら、留吉を眺めていると、彼はキリがないと思ったのか、敵に攻撃をするのを止め、斧を一心不乱に振り回し、切りつけながら、バーカウンターに逃げ込んだ。

(少し面倒だな……でも、先生の力でボコボコにするのも良いのかもしれないな……)

 そう言い、悟は印を結び、呪文を唱え、その瞬間、青白い光が、逃げ込んだカウンターの影を照らす。彼の慌てた声が二階まで聞こえた。

「日猿木家を怒らせた事、後悔すればいいよ」

 悟は冷酷な顔をしながら、その青白い光を眺めるのだった。

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