留吉は気が付くと、ダンスホールではない場所に立っており、困惑する。
(ん?ここは何所だ?)
視力は少し戻っているのだろうか。水の中で目を開けた時のように、ぼやけているが、何があるのか、どういう場所にいるかは分かる程度には回復しているようだ。
彼が立っていたのは教会のような洋館の中で、ステンドガラスが奥にあり、そのすぐ前に聖壇が置かれている。そして、明かりは無く周囲は薄暗い。
(先程まで留吉はバーカウンターの影で、他の様子を窺っていたはずだが……)
彼は、直前の事を思い返す。逃げ込んだ後、そこには酒瓶に口を付けている宮司がおり、問いただすと、彼は清めていただけだと、つねられた頬を抑えながら言った。
小声でどうするべきかと話を宮司としていると、誰かの声が脳内に響く。
【――私が少し手を貸そう】
(そこから、よく覚えてないな――)
夢の中にしては、着ている服、持っている物、全部現実的である。
(持っているものも同じだ……)
煙草とライターを上着から取り出し、状態を確認すると、煙草の本数も、ライターオイルの残量も同じ、無い物は拳銃と、斧くらいだろうか。
(煙草は増えてもいいのになぁ。何本増えてもいい)
留吉は今の状況が分かっていないものの、堂々とした態度、振る舞いだ。煙草を箱から出し、咥え、ライターで火をつける。いつもの苦い味が鼻を抜け、精神を落ち着かせた。
(味覚も問題なし)
すると、少し離れた場所から咳が聞こえ、視線をその方向に移す。先程と違い、はっきりとその姿が見える。ステンドガラスが煌めき、その前に洋装の男性の姿があった。
悟と同じ顔、同じ背丈、同じ声、だがそれは、その人物は彼ではない。
「初めまして、橋本君」
朗らかだが、裏がありそうな顔、彼が留吉に微笑みかけた。
「あー、アンタが日猿木家の神様?だったら、バカ息子を止めてくれないか?陸軍も、俺んちも暇じゃないんだよ」
「自分は少し力を貸しているだけだ。集団催眠は彼自身の霊力」
留吉はそう呆れた顔で言うが、彼は笑顔を崩さない。
彼は自分が主軸だと認識はあるが、自身と関係ない事だと思っているように感じた。
(うちの聖獣とは違うタイプだな……)
振り回すタイプというか、面白そうだからと、手を貸し、傍観している感じなのだろう。
留吉はそう思っていると、彼は話をする。
「そんなことよりも、君は実に健康状態が良さそうでいいな。うちの四男は霊力が強いかわりに体が弱くてなぁ。悟だけではない、皆病弱だ」
「何が言いたい?」
留吉は彼が何を言いたいのかが察せずに、首を傾げた。
「引っ越し先だよ、引っ越し先。いやぁ、君が自分と契約してくれるのなら、自分も安泰だなと。日猿木家がそのうち、滅ぶというか、血が途絶えるかもしれないし。誰だって、ホームレスには、なりたくないだろう?」
彼はそう言い、やれやれという顔をする。
「自分が約束しているのは、富、権力。君が望めば、全部与えるよ。国を動かすような美女でも用意してやろう」
「いや、いらない。俺は誰かを信仰するとか、キャラじゃないんだ」
留吉はそう言い、煙草を吹かす。
「そうか、残念だ」
男は静かにそう言うと、急に留吉の前に現れ、大きな両手で首を絞めてきた。
口に咥えていた煙草が床に落ち、その火が消える。
「あーあ、残念だ。楽しみが一つ減った」
首を絞めたまま、壁に押さえつけ、留吉の口から泡が混じった唾液が垂れ、首から骨が折れる音が数回鳴った。
「早く出てきたら、どうだ?精神世界で死んだら、魂が消失する。蘇生術でも蘇生できないぞ」
彼は周囲をキョロキョロと見渡しながら、誰かに声をかける。すると、留吉の手が彼の手に触れ、静かに引きはがす。彼の茶色い瞳は、西洋人のように蒼く、霊力が宿っている。
【猿神よ。呼ばれんでも出て来とるわ、ボケが。陸軍の仕事が片付いたから、ついでにお前も片づけてやる――】
その声は神通力で、陸軍の人間なら聞き慣れた聖獣『麒麟』の物だ。
彼は口を静かに開く。ギザギザな歯は獣のようで、とても忌々しい。
【神聖な神と悪神。正義と悪、戦いじゃのう。お前の悪い噂は、前任の虎から聞いとる】
「人の欲を利用しているに過ぎないのだよ。人の正義なんて、神からすれば大したことない」
猿神はそう言い、術を呟く。すると、霊術か足を付けている地から鋭利な棘が伸び、それを麒麟は宙を舞い、交わす。
(勇五郎の娘も実に厄介な家と揉めたものだ……)
麒麟は面倒そうな顔をし、両手で印を結ぶ。
(ここからは霊術のセンスと力のぶつけ合いになるな……)
印を結んだ事で、猿神に向かい波動砲が放たれるのだが、彼のほうもそれを避け、次の攻撃に備え、距離を取った。
「じゃあ、こんなのはどうだ?」
そう言うと、猿神は留吉が使用していたものと同じ斧を霊力で作り出した。
「これで、殺してやる」
そう言うと、猿神は転移術か、宙にいた麒麟の真後ろに移動し、後頭部を雑に掴む。
そして、鋭利な棘が生えている地面に勢いよく押し付け、顔面がそれに突き刺さった。
「どうだ?痛いか?痛いか?」
狂気じみているのは、後頭部を掴んでいた猿神自身の手も、棘が貫いている事だ。
「作った斧だと、この首は一回では切り落とせないなぁ。何回か首を叩かないと――」
猿神はそう言い、うなじと襟足の髪に触れ、撫でた。
その際、彼のギザギザな歯が、狂気的な笑みを浮かべる。
おそらく、彼は勝利を確信していたのだろう。
でも現実は違った。
【この程度か?一時的とはいえ、体を借りた、勇五郎の息子に申し訳ないなぁ】
留吉の姿が灰や砂のように散り、そこには猿神だけ姿がある。
【この体のほうが好きだ。愛着がある】
猿神が声の方を見ると、数メートル先に整えた髭を生やした中年男性の姿があった。
それは勇五郎に化けた麒麟であり、彼は笑みを浮かべ淡々と話す。
【留吉の魂は聖獣の喧嘩に関係ないから、肉体の傍に戻した】
革靴の音が地面にカツカツと響き、それはとても静かだ。
「また転移術で……」
だが、それは難しかったようで、猿神が今いる地面にくっきりと、魔法陣が浮かぶ。
【先程の攻撃、範囲が広くて重宝しておる。当たらなくても、こう役に立つからのう】
それは霊術を防ぐ術のようで、猿神が先程使った転移術は発動しない。
【無力化したお前はどう戦う?】
勇五郎に化けた麒麟が指を拳銃のような形にし、子供のようにバンと口にすると、指先から拳銃より強い、波動弾が発射され、猿神の心臓と脳を撃ち抜いた。
「がっ――」
彼の手から複製された留吉の斧が離れ、地面に音を立て落ちる。
【君と私では力の差が違いすぎるんだよ。経験も霊術も。私は何千年も人間から信仰されている神様なのだから、当然。分からなかったのか?それとも、自身の能力を過信したか?】
彼は冷静そうな顔で、それを拾い上げ、大きく上に振り上げた。
【勇五郎の子供達にはもう関わるな。次は半殺しで済まさんぞ】
麒麟は勇五郎の見た目で、斧を猿神に振り落とした。
*
悟は何かを察し、ダンスホールの二階で、愕然と項垂れた。
「先生?先生!」
すると、一階で佐倉が戦っていた暴君達は、正気を取り戻したのか、どうして自分がここにいるのかという顔をし、周囲を見渡し始める。
「自分たちは何を?」
「何故、ダンスホールに?」
催眠が解けた者が困惑していると、銃声がその場に鳴り響いた。
「あっ、やば――」
佐倉が正気を取り戻した者に間違って発砲し、撃ち殺した事で、生きている者はパニックを起こし、出口に向かっていく。
「テロだ!」
「暴君が善良な市民を殺したのよ!」
「どけっ!俺が先に出る!」
他を押しのけ、突き飛ばし、罵りながら。
「醜い……やはり、この世には愛が足りない……悲しい……」
悲壮感で胸いっぱいな佐倉は、そう言いながら、拳銃を内ポケットにしまう。
二階でその様子を見ていた悟は、どうしたらいいか分からず、焦り、額に脂汗を滲ませる。
「どうしよう……先生が……お父様とお母様に叱られる……」
すると、階段を上がる足音が聞こえ、悟はビクビクと体を震わせ、挙動不審な様子で、目を泳がせた。
「君の家の神様、やられたみたいだね」
その声は留吉ではなく、宮司で、悟が彼の方を見ると、左目に巻いた包帯は血で真っ赤に染まっており、右目は薄い茶色である。
顔の溶けた部分は固まり、肉が剝き出しではあるが、止血されていた。
「でも、大丈夫。少し弱っただけ、そのうち復活するよ」
二コリと微笑む彼に悟は安堵するが、彼が持っているものが視界に入り、驚愕する。
彼の手には、留吉が愛用している斧があった。
「怯えた顔をするって事は、あれだね。精神をここに移していたのは、神様の力?精神は自身の力では、体に戻れない?いや、違うな……魂と肉体は、完全に切り離す事は不可能だ」
宮司は嬉しそうな表情で、楽しそうに悟に語り掛ける。
「という事は、半分だ。幽体離脱みたいな感じだよね?」
魂が肉体から離れると死んでしまう。しかも、その死体は腐っていくからリスクが高い。
だったら魂を半分に分けて、本体に片方、憑代に片方入れた。
魂が半分で、しかも他人、憑代に入るとなると安定しない為、神様に力を借りたという訳だ。
「魂が半分だけだから、自慢の霊力も安定しないでしょ?術も使えないよね?」
宮司は斧を振り上げ、微笑んだ。尻もちをつき、焦る悟に宮司は同情しない。
「待って!話をしよう!ここで自分を殺せば憑代も死ぬよ!」
「大丈夫、蘇生できるから。いやぁ、留吉から右目も借りておいてよかった。狙いが定まる」
霊視で見ると狙いが定まらなくてと、宮司は呟く。
悟の顔は恐怖で、ぐちゃぐちゃになっているが、宮司はお構いなしだ。
「大丈夫、大丈夫。君も蘇生できるんだからさ」
「やめ――」
悟がそう言うが、宮司はお構いなしで、彼の頭部に斧を振り下ろした。
頭が割れる音がその場に静かに響き、天井を汚す。
*
それと同時刻。
場所は日猿木の本家。屋敷の部屋には、ラジオからジャズの演奏が流れ、西洋から取り寄せた絨毯にソファー、その他のアンティーク家具が並んでいる。すると、部屋の扉が開く。
「失礼します、悟お坊ちゃま」
ティーセットをカートに乗せたメイドが、部屋にやってきた。
(眠っているのかしら……)
返事が無いのが少し気になったが、メイドは悟がいる席までそれを運ぶ。彼は席に座った状態で俯いており、数時間前に用意した紅茶は手を付けていないのか、減っていない。
「悟お坊ちゃま。紅茶の交換を致しますね」
若いメイドが椅子に座っている悟に近づくと、前兆もなく、彼の後頭部が割れ、血しぶきをその場にまき散らかした。
「だ、旦那様!奥様!悟坊ちゃまが死にました!」
天井や服、絨毯が血まみれになり、それを見ていた彼女は発狂し、足がもつれ、転びながら、その部屋を出るのだった。
*
「死体は一旦、陸軍が回収する。逃げた一般市民は誰か突き止めて、回収するように。術で記憶の消去を行う。陸軍と華族の喧嘩に巻き込んだとなれば、大事件だぞ」
遠くから声が聞こえ、真っ暗な視界に稲妻のような光の線が映りこむ。
視力が戻ると、そこには衛生兵の男性がおり、喫煙者の留吉からしても軍服はヤニ臭い。
「衛星――」
「蘇生は完了したが、体調が悪いようなら、この後診療所に行くように。全く、自分で首を切るとか正気ではないぞ」
状況を知らない彼はカギ編み用の棒を持っており、ペン回しのように指で動かしていた。
「撃たれた箇所と、自分で切った首は、基地で保管されている血と脂肪を使った。体調が落ち着いたら、補充するように」
そう言い、彼は応急セットが入った鞄を持ち、その場を去ろうとするのだが、留吉は声をかけ引き止めた。
「なぁ、衛星。人は死んだらどうなるんだ?」
「なんだ急に。死んで、頭でもおかしくなったか?」
彼はそう言い、死んだ瞳で煙草を上着から取り出し、口に咥え、自身の霊力で火をつけた。
「蘇生はできる。だが、それは死んですぐじゃないとできないし、死因の箇所に代用品があった場合だけだ。経過したり、替えが無い場合、病気とかの場合は蘇生できないだろう」
「俺には死んだ後のシステムは分からん。人は死んだ後、魂がまだ生きようとして、死体にしがみつくんだ。蘇生は死因の部分を直して、その魂を入れているのにすぎない」
すると、彼は自身が持っている煙草を留吉に差出してきた。
留吉はそれを受け取り、煙草を咥え、ライターで火をつける。
「禁煙するか……」
「タバコ吸いながらいうな……」
留吉と衛星はそんな会話をしながら、陸軍が転がっている死体を運んでいるのを眺めた。
「先輩。近くの工事現場から、ネコ借りてきました」
衛生兵の誰かが言う。
「よくやった。それに乗せて運べ。夏場だから、すぐ臭いだすぞ」
担架に乗せていたが、量が多い為それが足りず、工事用の手押し車に乗せ、運び出す。
死後、経過しているのか、腕や足はうまく曲がらず、まるでマネキンを積んでいるようだ。
「あれくらいになると、替えがあっても蘇生は難しいな。かわいそうだが、焼いて処分して、遺族に戻す感じになる」
すると、上司に事情を事細かに聞かれ、ゲッソリした宮司が戻ってくる。
「やっと終わった……」
「そういえば、宮司。早く、眼球返せよ」
宮司の皮膚は高い霊力からか、もう再生し始めており、爛れた箇所は少し赤みがあるものの完治していた。
「せっかちなんだから……霊視で見ればいいから、自分はいいんだけどさ」
そう言い、宮司は瞼を押し、眼球を動かすが、何かに気が付き、それを止めた。
「どうした?」
「ごめん、留吉。目、馴染んじゃって取れないや」
留吉は宮司に怒り交じりの笑顔を向け、無言で彼に組み付くのだった。
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