第二章 『マユと桑子』②

 広い居間は学校の教室くらいの大きさで、西洋から取り寄せた絨毯に、フカフカなソファー、棚の上にはワニや猛禽類の剥製が置いてある。ラジオから今流行っているらしい歌謡曲が流れているが、時間帯からかそれがジャズの演奏に切り替わった。

 だが、ソファーに座っている和装の男性は、ラジオから聞こえる音が変わった事に気が付かない。

 いや、気が付くような余裕は、彼にはなかったというほうが正しいだろう。

『橋本婚約破棄 娘は西洋乙女になる』

 週刊誌にそう見出しが載り、その華族はその記事に絶望し、広い居間で質の良いソファーに座り、項垂れる。

「マユさんっ――うぅ……」

 彼の両腕には、平行に数本、深い切り傷があり、テーブルには度の高い酒と、数種類の錠剤が散乱していた。そんな部屋に誰かが入ってくる。

「ただいま。何だ?こんなに荒れて」

 そこには軍服を着た中肉中背の男性が輸入ワインをラッパ飲みしながら、和装の男性にズカズカと歩き近づく。

「『久(ひさし)』兄さん……」

 彼は『日猿木 久(ひさるき ひさし)』日猿木家の三男で、空軍に勤めており、生真面目で、神経質そうな男性だ。若白髪に微量の霊力が通い、少々だが煌めいている。

 そんな彼は、酒に強いらしく素面の顔で、テーブルに置かれた週刊誌の表紙を見た。

(へぇ、あの女。婚約破棄したんだ……)

 そう思いながら、軍服の男はワインの瓶に口をつける。

「今までの我儘のツケが回ってきたんじゃないか?あー、きっとマユは死んでしまうだろうな」

 そう久はわざとらしい、煽るような声を出した。すると、ラジオの音楽にノイズが混ざりだす。俯いた悟が顔を上げ、瞳孔が開いた彼の瞳が久を映しだす。

 表情は虚ろだが、目がギラギラしており、獲物を見つけた獣のようで、凄く気味が悪い。

【妾の子供が偉そうに――】

 その声は悟の口から出ているが、少し低く、穏やかな彼とは少し違う口調で、言葉がきつい印象がある。

(こいつ、いつから悟の中に――)

 悟の顔には涙の跡が残っているものの、乾いており、いつから悟ではなく、あの存在だったのかと、彼は思った。そんな久は、緊張感に支配されるが、正気を保つ。

「俺はアンタの姿は見えるくらい霊力は無いし、アンタがどれだけ恐ろしいかは分からないな」

 久はそう言い、ワイン瓶に口を付けながら歩き出し、部屋を出た。

 長く広い屋敷の廊下を渡る彼の表情は、凄く穏やかで、鼻歌を口ずさんでいるあたり、機嫌がとてもよさそうだった。彼の鼻歌が、静かな廊下に響く。

「橋本の御嬢さん。軍服似合っているね」

「貴方もね……」

 マユと桑子は支給された軍服に着替え、陸軍基地の広場に移動する。

若い女性達が集められていたが、軍服をまだ着ていない人物も多い。彼女らの立ち振る舞いや服装から、マユよりも良い家の人物が集まったのだと、感じ取ることができる。

 大体の女性は、不安げな表情で、挙動不審なのだが、一人明るい雰囲気で、喋り続けている人物がいる。彼女は質の良いワンピースを着て、場所に合わない洋風な日傘をさしているあたり、良い家の出身か、援助してくれる男性がいるかだろう。

「でねー、私の旦那様がねー」

 その女性はかなり顔が良く、小柄でスラっとした体形で、霊力が強いのか瞳が西洋人のように青い。薄い茶色の髪も、とても艶があり美しい。女優みたいな形で、劇や映画に出たら、東洋中の男性が虜になるだろう。帝が彼女を一目見たら、妻まで行かなくても、妾もしくは友人として援助されるだけの関係もありえるだろう。

「あの……すみません……私はそろそろ……」

「えー、いいじゃないの。私の旦那様はとても優しい方で、愛情深いのよ。疲れて眠っていたら、額にキスもしてくれるし、戦艦でお仕事している時は、寄った港から絵葉書も出してくれるの、それから、それから――」

 ずっと話をされているのだろう隣の女性は、ゲッソリとやつれている。

「でねー、それで――あっ!」

 話し好きな彼女はマユの事に気が付き、やつれた女性を置いて、二人のほうにやってきた。

「貴方、マユちゃん?間違いでなければ、なんだけど。橋本大佐殿の娘だったりする?」

「えーと……」

 マユはこの人物とは初対面で、何故彼女が自分の名前を知っているのかも分からず、困惑している。

「私は『海馬 絹(かいば きぬ)』海軍の海馬少将の妾で、最近養子縁組したの」

「あぁ、海軍の……」

 マユは父親の友人すべてを把握している訳ではないが、海軍の偉い人に友人がいると聞いた事があった。

(確か、父親と同い年だったはずだけど……問題ないのだろうか……)

 彼女の見た目はマユよりも若く、ハキハキとした雰囲気があり、フレッシュな印象を与えた。

「絹さんはその……よく私が橋本大佐の娘だと分かりましたね……」

 マユは気まずい顔で、彼女にそう言う。

「呼ぶ時は、おキヌとか、キヌでいいよ。いやぁ、その件は週刊誌に写真が載っていたから、顔を知っていたのよ。玉の輿を逃しちゃってかわいそうにね」

 キヌはそう言い、マユの唇に色白で細い指をちょんとくっ付け、優しく微笑む。

 おじさんキラーと言われているのは、こういう女性なのかもしれない。

「ねぇ、貴方もお友達になりましょうよ」

 そう桑子や近くにいた女性にも言い、話の輪に無理やり入れる。

「はぁ……桑子です。はじめまして、海馬のお嬢様……」

 そのお喋りで利己的な彼女に、堂々としていた桑子もタジタジだった。

「嫌だわ、凄く堅い……美人なのに損しているわ。貴方のお名前は?」

「私はシラ……えっと『佐藤 白(さとう しら)』」

 無理やり入れられた彼女は、断髪している洋装、強めの香水をつけている事、キヌと違いギラギラとした雰囲気。その事から、今時のチャランポランなだらしない女だとマユは思う。

 そんなやり取りをしていると、勇五郎の部下『佐倉』がやってきて、着替えていない女性を更衣室へ案内する。

「簡単な検査をした後、採血など、蘇生で必要なものを取りますので、速やかに着替えて下さいませ!」

 そう佐倉はその場に響くような、大きな声で言った。

 260年 水無月。

 大雨が庭の紫陽花に刺さるように、天から降ってくる。

 そんな中、マユは自宅の居間で、持ち物に名前を書く。リュック、コップ、歯ブラシ、財布、ハンカチをテーブルに並べていると、玉之丞が畳からジャンプし、上に乗り、マユの方にお腹を見せ寝転んだ。それはまるで、寝転びながら新聞を見る留吉のようだ。

『僕も書いて。お腹とか、スベスベで書きやすいよ』

「家族には書かないものなの」

 マユは名前を書いた靴下を静かにテーブルに置く。

 だが、幼い彼は納得できず、癇癪を起し、テーブルの上で転げまわる。

『ヤダヤダ!名前、書いてよ!』

「もう仕方がないな……」

 マユは声を漏らし、名前を書いたばかりのハンカチを彼の首に巻いてあげる。

「それは特別なハンカチなの。理由は私が今、お名前を書いたからだよ」

『素敵な事?』

「そうそう、素敵なんだ。だから、玉之丞におすそ分けね」

 そう言い、やっと彼の癇癪が落ち着き、マユの靴下を甘嚙みしたり、顔を突っ込んだりし始めた。桑子が現在いるのは、マユの住まいがある『叶虎』の北方にある『角之上(つのがみ)』という都市だ。そこは叶虎と違い、海に面していて、工場や海軍基地があり、流れ者も多く、治安が少々悪いらしいが、工業で栄えているという。佐倉が連絡先を知っており、彼女とやり取りした。そして彼女と会う日を決め、マユはその旅行の準備をしている。

(桑子と会うの、緊張するな……五年……いや、四年ぶりなのかな……)

そう思いながら、テーブルの上の玉之丞を抱き上げた。

「玉之丞、もう遅いから眠ろうか」

『うん!』

 名前を書いた雑貨をそのままテーブルに置き、居間の電気を消す。寝室に布団を敷くと、枕の傍に置いた籠に玉之丞が手拭いを運び、中に入れる。

 マユが覗き込むと、その中には綿や留吉の靴下、マユのハンカチ、勇五郎のネクタイが入っていて、この籠は彼の宝物入れなのだと感じ取れ、マユは和み、優しい声で話しかけた。

「玉之丞、電気消すね」

 玉之丞がその籠に入るのを確認した後、寝室の電気を消す。

 陸軍の基地で、集まった女子は二組に分けられた。

「体格が良いものは脂肪を、細いものは血液を採取する」

 女子らはその言葉で、人間不信そうな顔に変化する。

「因みにだが、抜いた血肉は、死んだ時の蘇生、怪我をした場合の治癒に使う。脂肪のほうが、効果は高く、仮に臓器を失っても、それで複製できると思ってくれ」

 そう説明する彼は、目の下に濃いクマを作っており、喫煙者なのだろうか、強い煙草の匂いが風に乗り、マユの鼻に刺さる。

「後、月経の者、低血圧の者は挙手するように」

 彼は死んだ瞳で淡々と話した為、セクシャル的な意味は無いのだろう。羞恥心からか挙手する者はおらず、その場は静まり返った。それを見た宮司が彼に駆け寄り、話をする。

「ちょっと、衛星君。御嬢さん達に失礼だよ……」

「宮司、お前の方は準備終わったのか?」

 彼は応接室で会った時と違い、使い捨ての紙製のエプロンに、マスクをしている。

 髪は束ねられているものの、霊力が強いようで、その艶が煌めいているように見えた。

「もう、愛想が無いんだから……仕方がない」

 そう宮司が言い、全員に声をかけた。

「じゃあ、皆。治療室に移動しますよ。脂肪吸引の方は第一号室で、採血の方は第二号室。採血は私が担当ですので安心してください」

 宮司はそう言い、皆に微笑んだ。

 それを見た一人の女子が、その場で手を上げ、彼に質問をする。

「あの……質問いいですか?もし仮に月経だったり、低血圧の場合は何か問題でも?」

「いや、そんなものはないですよ。そうですね、人間の出血性ショックは、1リットルと言われてますので……抜くのは0・9リットル?じゃあ0・1リットルくらい、それから減らしますかね。大丈夫、仮に死んでも生き返らせますから、安心してください」

 月経中、低血圧でも、0・8リットルは血液を抜かれる。

 彼は人間の生命ギリギリの範囲を攻めようとしていた。

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