地元の少年に教えられた道を歩くと、歩かなければいけない方向に大きな坂があるのが見えた。それもとても急な坂だ。
(何故、この町は坂ばかりなのだろうか……)
目の前の試練を見て、とてもがっかりする。
「上らなきゃ駄目って……そんな……」
持っている手描きの地図を確認しても、地形は変わらない。
中年、インドア派、引きこもり職のエロ漫画家の足腰は、もう既に悲鳴を上げていた。
疲労感は体力低下によるものか、脱水症状なのかは分からないが、目の前の坂を見る度、考える度、酷くなる。
(あまり考えないようにしよう……)
無心で坂を上っていった。
額から汗が吹き出し、喉の水分が蒸発する。
せめて、中間時点にコンビニや自動販売機があれば涼めるというのに。
そんなものは存在しない。
視線の先のアスファルトからは、陽炎が出ていた。
過酷な坂を上り切った後、近くの住宅街の方に歩く。
親切な少年から聞いた自然公園への案内看板が見え、その横を素通りした。
(よし、ここまで来たら大丈夫だ)
初めは整備された綺麗な街並みなのだが、途中から少し古臭い塗炭屋根の家やプレハブ住宅が多くなっていった。
その中に友人が経営している孤児院が見え、息を切らしながら敷地内に入る。
インターホンを鳴らすと、綺麗で若い女性が出迎えた。
スレンダーな体型、きめ細やかな肌は、しわどころかシミもない。
この間二十歳の誕生日を迎えたばかりと訊いていたが、その通りの容姿、雰囲気である。
生命力というのだろうか、傍にいると、エネルギッシュさも感じる。
そして、彼女は、クリップのような髪飾り、確か名前はバレッタだっただろうか、色素の薄い髪をそれで束ねている。
「はーい、どちら様。あっ、こんにちは。先生!エロ漫画家先生が来ましたよ!」
孤児院でそんな事を大声で言う為、子供が部屋からわらわらと出てきて、自分の顔をジロジロと見ている。
「確かにそうだけど、大声で言わないでほしいというか……」
「先生!エロ漫画の先生が!」
そう言うが、彼女には関係ないようである。
「もう、何で聞こえないかなぁ」
彼女は彼がいる方を向く。
白く細いうなじには、番の印の噛み跡がくっきりと付いており、エロ漫画家としては惹かれるものがある。
人妻のうなじにワクワクしていると、亭主である友人が現れた。
「はいはーい。あっ、久しぶりじゃないか。暑かっただろ、ガラナ出すから中に入れ」
自分よりも少し年上の尾崎は、白髪が混じった黒髪の男性で、黒縁の眼鏡をかけている。
「そういえば、あの。あの子、元気?あの弁護士の――何考えているか、分からない子」
「志摩ですか?」
「そう、その子」
彼はそう笑顔で言う。
自分は志摩の事を思い出すが、最後に会った彼は相変わらずの表情で、ただ仕事で行けないと告げるだけだった。
「まぁ、元気なのかな。今年は仕事と重なって来れなかったんですけど」
「相変わらず、独身貴族なの?物凄く、モテるだろうにね」
そう言う彼は、志摩に負けず劣らず、手足が細く長く、モデルのような体型で、笑う度に浮かぶ目尻のしわと、ほうれい線を見る度、良い歳の取り方をしたなと思うのだった。
*
施設の中庭で、ビニールプールを作り、水を張る。
「せんせいが来ると、プールで遊べるから好きだよ!」
「せんせい、ずっとここにいてよ!」
幼い子供達に絡まれながら、愛想笑いをする。
ビニールプールは自分が来た時しか、施設で出さないようで、子供たちは自分が来るのを心待ちにいつもしている。
「水遊びじゃなくて、泥遊びになるから大変」
最初はプールで遊ぶのだが、そのうちプールという結界を離れ、水でぐちゃぐちゃになった地面を泳ぎ始める。
今年はやんちゃな子が多いらしく、開始して間もないというのに、泥の中を泳いでいた。
「こういう魚、いたよな?」
「ムツゴロウ……」
この後、そのムツゴロウ達をお風呂に入れ、汚れた衣類の泥を落とすのが、とても過酷だ。
「お互い、歳を取ったなぁ」
「貴方は若いでしょ。若い女の子、孕ませて結婚したんだから」
「お互い好きなんだから、するもんは、するだろう」
すると彼は幸せそうに笑い、言う。
「肇君の事、やっぱり思い出す?」
「そうだね」
今の生活に不満がある訳ではない、でもふとした時思い出す。
「もう、俺はあの子の顔を思い出せない」
彼はそう言い、自分の口を指でなぞる。
あの運命の日、肇の首を噛んだ感触は、彼の口に残っておらず、もう彼がこの世に存在しないのだと思い、少し寂しくなった。
「でも君が来る度、蘇るんだ」
彼は自分を見て笑う。
彼は昔話を淡々とする。
「あっ、でも最近思い出した事があった」
彼はそう言う、何を言うんだと思ったら、昔の事、肇の事を口にした。
「『自分みたいに、親を恨まないで』って言った事を思い出した」
「そっか」
彼が初めて会った時、あの子が母親に連れられてきた事。
悪い大人達から守るために噛んだ事。
大人になった彼の姿を、現実で見る事は無かったけれど、大事に思っていた事。
彼はその言葉通り、自分の母親を最後まで愛していた事。
それが自分に不幸をもたらした酷い人間でも、大事に、大事に。
「綺麗事だけど、綺麗じゃない」
「そうだね。全然、綺麗じゃない」
自分もそれを聞いて笑みが零れる。

コメント