「この時期の海に落ちたら、一瞬で凍死するぞ!」
254年 師走、夜の十一時頃、天候は大雨。
乙女を乗せた移送用の軍艦は、荒れた海を渡る。
「前方に巨大な生物の影!あれは――海龍?いいえ、シーサーペントであります!」
見張りの将校は、雨で濡れた望遠鏡のレンズを拭いながら、そう叫ぶ。
「武器をしまえ、怒らせると厄介だぞ。聖獣の横を抜けるぞ!」
それに対して、そこにいた海軍の中尉が雨の中、指示を出す。
「せ、聖獣が警戒態勢になりました!抜けるのは無理そうです!」
「誰か、宮司呼んで来い!あいつは霊力が高いから、聖獣と会話できる!」
そんな会話をしているのが、軍艦の大部屋で皆と眠っていたマユに届く。
(なんか騒がしいなぁ……)
マユはそう思いながら、重い瞼を開けた。黒く長いまつ毛の間から、茶色く色素の薄い黒目が覗く。
周囲は薄暗いからか、瞳孔が大きい。
しばらくすると、非常事態が済んだのか、部屋の外が静かになる。その頃には目がすっかり冴え、先程まで何も見えなかった部屋の様子が、明かり無しでもよく見えた。
(相変わらず、狭い……)
ここは戦艦の大部屋なのだが、三十人以上も人数がいるため、隣との距離は三十センチほどで、体の大勢を変えるのも神経を張る。しかも枕は無く、厚手の毛布が一枚あるだけで、環境が良いとはいえない。右に寝返りを打つと、そこには人一人分、空間が開いていた。
(あの男好きが、また男の部屋に行きやがった……)
右隣で眠っていたはずの断髪女は、将校の部屋に行ったのか、毛布だけが抜け殻のように置いてある。マユは呆れながら、左隣の背の高い女性に声をかけた。
「ねぇ、桑子(くわこ)。おシラが……」
マユに話しかけられた女性は、薄目を開けるが、半分夢の中にいるようで、寝ぼけた返事をする。
「――どうした?また寒いの?」
「いや、寒いけど、そうじゃなくて、シラが……」
「シラから毛布借りなよ……寒ければ、男の所に行くでしょ……」
そう桑子は言い、マユとは違う方向に寝返りを打った。
その時、桑子の隣の女性が、小さく痛いと言った為、寝返りを打った彼女が巻き込んだか、ぶつかったのだろうと、マユは思う。
(そんなものかな……)
マユ自身、硬派な恋愛をしたことはないが、シラの恋愛関係はかなり乱れていると感じる。
マユは桑子が別の方向を向いた為、天井に視線を戻し、それを眺めながら思う。
(それにしても寒いな……)
寝る前に火鉢で暖を取ったはずだが、天気が悪いからか、いつもよりも部屋が冷えている気がした。
シラも同じように目を覚まして、寒さに我慢できなくなって男の部屋に行ったのだろう。
マユは桑子が言った通り、シラが脱ぎ捨てた毛布を拝借し、自分のものと一緒に体に巻いた。
(覚悟して、ここまで来たけれど、故郷に早く帰りたい……)
マユは再び、夢の中に落ちる。
*
雲一つない晴天で、温かい空気、頬を撫でる風が心地よい。
襟なしの白いシャツに、茶色いタイトスカートに、足袋に下駄。
(あぁ、懐かしい……)
そこは、かつてマユが勤めていた飛行場で、広い滑走路が見える。少し歩き、滑走路から離れると、小さな庭にたどり着き、そこにはツツジの花が咲いていた。とても鮮やかな赤紫色で、見事なものだ。そして、その近くに一人の男性の姿が見えるのであった。
質の良いが地味な深緑の着物、下駄に、黒く直毛な髪がよく映える。
『マユさん、早くこっちへ』
和装の背の高い男性がマユに大きく手を振った。
病弱だからか、彼の肌は色白く、体の線は細いが、堂々とした振る舞いである。
『マユさん』
そして、振る舞いとは正反対に、上品に微笑むのだった。
(あー、幸せだ……でも……)
マユは彼のほうに向かうことができず、その場にうずくまり、動けなくなった。
彼のことが好きなことも、大事なことも、何も変わらないはずだ。
でも、足が動かない、マユの理性がそうさせない。
『そうだよね、来られないよね。だって……』
――僕の事、捨てたもんね。
そう言う彼の顔は黒く塗りつぶされたように、真っ黒で、表情は見えない。
マユは違うと否定しようとするが、声は出ず、胸が苦しい。
何かが胸を強く圧迫しているようだ。
(お願い、助けて……息ができない……)
視界が歪み、近づく彼の顔は黒く塗りつぶされているはずだというのに、にっこりと微笑んで見えた。
「――悟(さとる)さん……」
マユは彼に触れようと、手を伸ばした。
*
「マユ――マユ!」
マユが重い瞼を上げると、枕元に軍服を着た弟『留吉(とめきち)』が正座していた。
260年 水無月。東洋の国『叶虎』にあるマユの自宅『橋本家』
「全く、働きもせず、ダラダラ寝坊とは……」
そう言う彼は、真っ直ぐ伸びた黒髪に色素の薄い黒目が、戦地に出向く前のマユに似ている。
だが、左目の色がやや濃く、オッドアイになっていた。
少し機嫌が悪いようで、眉間に皺が寄っており、目つきも悪い。
彼は図々しく、許可なく作った鍵で、人の家に勝手に入り、座布団まで使っている。
(鍵は父と私しか持ってないのに……特高警察にでも、通報するべきか……)
そう思いながら、マユは彼に嫌味を言う。
「枕元に軍人なんて……悪霊のようだ……」
「寝ぼけているのなら、叩く」
マユは正直な感想を言うと、彼は舌打ちをした後、言い返してきて、拳を握る。
「すごく痛そうだ……というか、今日は何で私の家に来たの?」
殴られる事が嫌で、マユは話を逸らす。留吉は陸軍の少尉で、少し離れた場所にある陸軍基地の社宅に住んでいる。わざわざ、何しに来たのか、マユは疑問に感じた。
「今日はリハビリの日でしょ?よくサボるから迎えにきました」
留吉は怒った顔のまま言った。
そういうことかと、マユは静かに思う。
そして、眠っていた脳をフル回転させ、欠席する理由を一生懸命、探す。
「あー、わざわざ来てもらって申し訳ないのだけれど。今日、調子悪い。悪夢だって見たの。胸が苦しい夢――うなされているの、見ていたでしょ?」
マユはそう言い、残念そうに目を閉じ、手のひらを額に乗せた。
「そりゃあ、それが胸に乗っているからでしょ」
そう弟が指差す方向は、マユの胸で、彼女がそっとそこに視線を向けると、手のひらサイズのそれが自分に鍵尻尾と、尻の穴を向け、スヤスヤと眠っている。
魚よりもトカゲに近い質の鱗は、アクアマリンの原石のような薄い水色。
小さな角と少し鋭い爪は翡翠のような色で、部屋の照明が反射している。
「あー、寝苦しい原因は、君か……『玉之丞(たまのじょう)』」
東洋の竜らしく、鼻筋や鼻の穴が小さく、筋肉や骨、翼は柔軟、尾は長くも短くもない。
マユはその小さな東洋竜の腹に手を入れ、抱えながら起き上がる。
『むぎゅぎゅ……』
だが、彼はまだ眠そうに寝言を口にしながら、尻尾をゆらゆらと揺らしていた。
「玉之丞、起きて」
マユは玉之丞を優しく撫で、頬ずりをする。鱗が丁度良い硬さで、ザラザラとした感触、まるで触っても崩れない砂壁を触っているようだ。
(体温が低いからか、ひんやりしているのがいいなー)
のんびりしていると、外から車のクラクションの音が聞こえた。そこにいたマユ、留吉はそのけたたましい音に驚き、体を硬直させる。マユは玉之丞を落としそうになるが、なんとか持ちこたえた。玉之丞は、その音でやっと起きたようで、大きな瞳を小さな手で、猫のようにこすり、マユの手のひらに額をくっつけ、甘える仕草をする。
『マユ、おはよう……』
「おはよう……」
マユは手乗りサイズの東洋竜が起きた事よりも、その音の出どころが気になって仕方がない。
音の場所は、マユの自宅前のようで、留吉の仲間が停めている車だろうと推測できるが、確信が持てない。留吉のほうを見ると、彼は渋い顔をしている。
すると、クラクションの方向から、聞き覚えのある男性の声が聞こえた。
「マユちゃーん!留吉ぃ!玉ちゃーん!お父さん、待ちきれなくて来ちゃったよー」
その声は、マユの家の近所に響き渡った。
父親の声で留吉は、先程の機嫌の悪い顔から、面倒くさそうな顔に切り替わる。
『お父さんだ!』
もちろん、玉之丞の父親ではない。
だが、父親は玉之丞を甘やかしている為、とても彼に懐いていた。
玉之丞はマユの手から、ぴょんと畳の上に降り、父親の所に向かおうと歩き出す。
ウキウキな時の馬を見たことがあるだろうか、玉之丞はそんな風にステップをリズミカルに刻み、首や尾、翼を嬉しそうに揺らす。その歩幅はかなり小さく、このペースなら、玄関までたどり着くまで一時間以上かかるだろう。
それを見た弟が立ち上がり、その竜を手に取り、抱き上げた。
「とりあえず、マユ、顔洗ってこい。その間、おにぎり作っとくから……」
『弟は料理とかできたの?』
玉之丞はそう留吉を呼ぶが、彼の弟ではない。
「おにぎりぐらいは、さすがにできる。三角にならないだけで――」
『えー、三角じゃないの?じゃあ、せめて具はおかかにしてね』
玉之丞は留吉に不満そうな表情を向け、文句を言う。
「全部、カリカリの梅にする」
『カリカリの梅きらい……』
文句を言ったばっかりに留吉はむっとした顔をし、玉之丞の要望を取り下げる。
余計な事を言うとこうなるというのは、まだ小さい玉之丞には分からないようだ。
マユはその様子を見て微笑む。二人が台所に行ったのを見送り、洗面所に向かう。
壁に備え付けられた、四角く古い鏡は少し不気味な雰囲気で、何かを封印していても、おかしくないように感じる。その鏡に映ったマユの姿は、留吉と似ているとは思えない。
というのも、黒く艶のあった自慢の髪は、全部白髪になり、老婆のようだ。
瞳はさらに色素が抜け、琥珀色で、瞳孔が猫のように細長い。
そして、右の眉上に直径十センチ程の範囲が緑色の鱗で覆われている。
(顔の鱗、広がってないよね?)
仮に留吉と玉之丞といて『兄弟なんです』と状況を知らない人に言ったら、留吉ではなく、玉之丞と兄弟だと思う事だろう。
(髪の毛も、目立つから嫌なんだよなぁ……)
とはいえ、出かける際に毎度、髪を炭で塗るのも結構なものである。
顔を洗い、使い古されたタオルで拭う。タオルはゴワゴワしていて、あまり良くない。
先程触れた玉之丞の肌のほうが、すべすべで気持ちがよかった気がする。
(今日、出かけるついでに新しいものを買ってもらおうかな……)
マユがそう思っていると、台所から留吉の大声が聞こえる。
「馬鹿姉!何分、顔洗っているんだ!早くしろ!」
その声は相変わらず、切れている。
「マユちゃん」
車の前にいる口髭を生やした軍服の男性が嬉しそうな声を出した。声は相変わらず大きく、近所に住んでいる人間は家から出てきたり、窓を開け、マユ達の姿を何事かと見ている。
「声が大きいよ……ご近所さんが見ているから……」
「そう?車が珍しくて見ているものだと」
そう言われ、父親の後ろにある車を確認する。最初は陸軍が所有している車を借りてきたのかと思ったが、そうではなく、一般的な輸入車だった。
「どうしたの?それ……」
西洋戦争が終わり、東洋株の価値が上がったとはいえ、車の価値は高く、中古の家が買えるくらいだった。
所有しているのは、成り上がりの金持ちか華族、それか軍や会社、しかも共有物だろう。
「いやあ、車を魔改造している成金と仲良くなってさぁ」
そう言い、彼は照れ臭そうに頬を掻く。
安く買えたか、レンタルしたのかと、マユは胸を撫でおろす。
「致命的な欠陥があるとかで、タダ同然でくれた」
「なにそれ、怖い!」
そんなやり取りをしていた時、玉之丞を肩に乗せた留吉がやってくる。
『お父さん!』
「玉ちゃん、おいで」
マユの父親はそう言い、玉之丞の前に手を広げた。
玉之丞はぴょんとそれに乗り、嬉しそうに鍵尻尾を振る。
「玉ちゃんは本当に可愛いなぁ」
彼が玉之丞を顔に近づけ、猫を吸う感覚で、小さな竜を吸う。
『髭がくすぐったい――』
玉之丞は、久しぶりにあったマユの父親にデレデレである。
彼は小さな子供に接するように、話しかけているが、竜は長命種。
(そういえば、玉之丞は何年生まれなのだろう……)
もしかしたら、玉之丞のほうが年上で、この竜はただの暇つぶしで一緒にいるだけなのかもしれない。
「何?その車……」
留吉は二人よりも、車が気になったようで、小さな声で言う。
「佐倉に迎えを頼んだんだけど……」
「子供の送り迎えは、父親の仕事だよ」
それを白けた顔で車を眺めていた留吉にマユは声をかける。
「なんか、魔改造された車をタダみたいな値段で買ったらしくて……」
怖くないかとマユは留吉に聞くが、彼は肝が据わっているようでこう言った。
「死んだらその時だ――」
弟の精神力が強くて、マユは大変驚く。
「というか、仮に死んでも蘇生呪文で、蘇生すればいいだろう。霊力の高い人間は陸軍基地に待機しているし」
「そうだけどさ……」
亡くなっても、霊力で蘇生できるというのも、どうなんだろうか。
マユはそう思うが、彼ら軍人にはそんな感覚はなく、堂々としている。
(何回か死んで蘇生すると、慣れていくというのは本当なんだなぁ……)
蘇生呪文というのは、名前通り、死んでしまった人間に対し、霊力が強い人間が蘇生する手段であるが、あまり道徳的ではなく、良い印象はない。
東洋の国には、西洋の国と違い人間の神様やその使者は存在せず、あの世というものがない。
魂は死体と共にあり、片方が朽ちると、もう片方も朽ちる。
教養もない考え方だと西洋人には馬鹿にされているが、逆にいえば、肉体の方を直すことができれば、魂は戻る、生き返るという事。機械とかと同じで、駄目になった個所を取り換え、補う。霊力が強くないと使えないこと、失ったパーツを補う血や脂肪が無いといけないとかが欠点だが、重宝されている。『蘇生士』という職業があったりするくらい、東洋では身近なものだった。治癒呪文とは、また別の為、あくまで蘇生だが、霊力の高く、訓練されている人間は基本、使用することができるといってもいい。
「じゃあ、皆。行こうか」
玉之丞を肩に乗せたマユ達の父は、車に乗り込む。
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