第二章 『マユと桑子』①

 マユは陸軍基地で、衛生兵の『衛星(えいせい)』とリハビリを行っている。

「いつものぶつかると、電球が光るやつをしますからね」

 それは赤子の玩具のような見た目で、太いワイヤーで出来たグネグネとしたもの。同じ素材の輪っかとそれが触れると、付属している電球が光るのだ。そして、マユの傍にご褒美の高級クッキーが数枚、皿に置いてあり、電球が光るたび、目の前の少尉がその一枚を拝借する。

「旨いわー。これ煙草にも合うんだよなー」

 衛星はそう言い、煙草とマッチを上着から取り出し、煙を吹かす。

(これが嫌でサボっていたんだよな……)

 実際は違うのかもしれないが、これが虐められている気がして、マユは毎回悲しくなるのだ。

(今日は一枚しか貰えなかった……)

 リハビリが終わり、人を見下した衛星の顔を思い出しながら、マユは応接室に向かう。

「玉之丞、帰るよー」

 扉を開けると、そこには宮司と佐倉の姿があり、玉之丞にメロメロである。

「こちょこちょ……ばぁ!」

『ばぁ!』

 宮司が子猫をあやすように、玉之丞の腹を擽った後、手を広げて遊んでいる。

「自分も、玉之丞君と遊びたい」

 佐倉はそう宮司に言うが、それを無視した彼は、玉之丞を両手で持ち、頬ずりする。

「あぁ、本当に可愛い。自分の部屋に連れて帰りたいよ」

 玉之丞の方も、彼の触り方が気に入っているようで、喉をゴロゴロと鳴らした。

「あのお二方、玉之丞を返してもらっていいですか?」

『あ!マユ!おかえり!』

 玉之丞はそう言い、宮司の手からマユの服に飛び乗る。

 マユが玉之丞を手に乗せ撫でると、再びゴロゴロと喉を鳴らし、心地よさそうに目を細めた。

「あー、可愛い。塩飴あげちゃう」

 佐倉はそう言い、玉之丞が乗っているマユの手に飴玉を置き、思い出したように言った。

「そういえば、マユさん。今、無職なんだって?」

「た、確かにそうだけど……ほら、手が後遺症で震えるし……」

「就活はしているのかなって」

 就活していないというよりも、再就職できると思えず、中々踏み込めずにいたマユは、佐倉に色々言われて顔が真っ青になる。

「すみません……」

「いや、そうじゃなくてね。最近、桑子さんが商売をし始めたらしくて、もし決まってなければ、彼女を頼ったらいいんじゃないかって」

 佐倉はそう言い、玉之丞に手を伸ばすが、彼の手は東洋竜の鍵尻尾で叩かれる。

「あっ――」

 しゅんとする佐倉を気にすることなく、玉之丞はマユの手に頬や角を擦り付け、ゴロゴロと鳴いていた。

 マユと桑子との出会いは、五年前。マユと悟の恋は、敵を多く作りすぎた。

 マユへ殺害予告が次々と届き、家への不法侵入、窃盗、盗撮と、被害が多くなっていた。

 最初は、マユの家だけであったが、そのうちそれがご近所さんまで範囲が広がる。

 最近は、家庭菜園をしているお宅の野菜が盗まれた。

 その事から、嫌がらせしている人間も本気だという事が分かる。

「困ったなぁ……」

 マユは呑気にそう言い、家の壁の落書きを濡れた雑巾で拭く。

「困ったじゃないだろう……暗くなるまでに、全部消すぞ!」

 襷掛けで着物の袖を上げた留吉は、チクチク言いながら、雑巾をバケツの上で絞る。

 非番でゆっくり休日を過ごすはずが、嫌がらせの対処、警察に被害届を出したり、被害に遭われた方に頭を下げに行ったりして、マユも留吉もヘトヘトであった。そして、疲れて帰ってきたら、家の囲いに嫌がらせの落書きがあったという訳で、留吉は物凄く不機嫌だ。

「もうこの家に住めないかもしれないな……」

「遠くに引っ越しして、家庭裁判所で苗字だけでも変更してもらう?」

 留吉にマユがそう言うと、彼は物凄い形相で、絞った雑巾をバケツに投げ入れ、マユの口を左右掴み、引っ張る。

「雑巾くひゃい……」

「お前、どの口で!この口か!この口なのか!」

 マユは留吉とそんなやり取りをしていると、その場に下駄の音が聞こえ、その人物は二人の近くで止まった。

「すみません。橋本さんのお宅ってどちらでしょうか?」

「ん?」

 留吉の手がマユから離れ、その方向を見る。そこには赤毛で、髪を簪で束ねた瓶底眼鏡の女性の姿があり、質の良い着物に身を包んでいるのを見るに、良い所の御嬢さんのようだ。

 背が高く、男性の平均身長である留吉と同じくらいあり、マユの事を必然的に見下ろす。

「橋本はうちですけど……」

 留吉は何かを察したのか、少々面倒そうな顔をし、マユを見た。

 橋本の客間に入った彼女は、記者のようで、名刺をマユに渡してくる。

「自分はこういうものです」

(記者にはいい思い出はないんだけど……)

 その名刺には『渡辺 桑子(わたなべ くわこ)』と名があり、会社を確認するが、小さい出版社なのか、マユは記憶にない。

「ほら、日猿木家の四男と交際しているって、新聞になっていたので、その後が知りたくて」

 そう桑子が言い、出されたお茶を飲んでいるが、マユは何か失言してしまいそうで、口にする言葉を悩んでいる。

(これで自分が何か誤解を与えてしまえば、自分だけでなく、他の迷惑になる……)

 近所に住む人間、陸軍への批判が集まり、大変な事になる。

 そうマユが困っていると、引き戸が勢いよく開く。

 その様子をこっそり見ていたのであろう留吉の姿があり、ズカズカと客間に入ってきた。

「お前、特高警察だろ?」

「えっ?」

「紙やインクの匂いがしない代わりに火薬の匂いがする。後、帯の内側に拳銃を隠しているな」

 マユは驚き声を漏らすが、留吉の持っているものに肝が冷える。

 彼は柄の長い薪割り斧を持っており、戦闘する気満々だった。

「あー、バレてたかぁ。聖獣と契約していると、五感が鋭くなるって本当なんだね。女の子の日だとかも、匂いで分かるの?」

 そう言う桑子に、留吉は嫌悪感を抱いた表情をした。

「殺すぞ」

 いつ斧を振り上げるか、マユは想像できず冷や冷やしている。

「あー、ごめん。君は冗談とか分からないタイプの子なんだね。失礼しました」

 桑子は諦めた顔をし、瓶底眼鏡を外す。

 彼女の瞳は緑色で、赤毛の髪で何となく予想はしていたが、混血児のようだ。

「私の祖父が西洋人でね。変な瞳の色でしょ?よく霊力が強いと勘違いされるけど、そんな事はないからね」

 焦点が合っているのを見るに、その瓶底眼鏡はあくまで変装で、視力は悪くないと思う。

 そして、彼女は変装用の眼鏡をテーブルに置き、両手を上げる。

「確かに自分は、記者だって嘘ついたし、特高警察だ。それは認めよう。でも、弟君。よく考えてごらん?それだけで、陸軍は人を殺すのかい?」

 特高警察は国のスパイのような存在で、反逆者や、革命家を片っ端から、拷問し、始末しているとも聞く。

「橋本の御嬢さん。私は君に提案をしにきた。特高警察代表としてね」

 桑子はそう言い、近くに置いていた灰皿を手で寄せ、袖の内ポケットから煙草を取り出した。

 彼女は安価な煙草を咥え、同じように取り出したマッチを擦り、火をつける。

 火のついたマッチを数回振ると、当たり前のように先端の火が消えた。

 彼女の緑色の瞳がマユの姿を映す。瞳の中のマユは、かなりやつれ、目の下にクマがある。数日で十年以上、歳を取ったようだ。そこまで、マユはその誹謗中傷に苦しんでいた。

 気が触れるのも時間の問題だと、身内や周囲の人間は分かり切っていたくらいには。

「婚約破棄なさい。そうすれば、気も、周囲も楽になる」

 彼女はそう言った後、瞳をゆっくり閉じ、煙草を美味しそうに吸うのだった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました