寝室のベッドの上。
体温計の音がピピピと部屋に鳴り響く。
「三十八度五分……」
服から取り出した体温計を見て、脱力し、ベッドの上で項垂れる。
七月上旬、締め切り三日前。
疲れからか、最近気温の変化が凄まじかったからか、それとも親友が家に転がり込んできたからか、熱を出して倒れてしまった。
「今日、病院行く?行くのなら、俺仕事休むけど」
「いや、締め切りがあるし……」
そう言うと、彼は呆れた顔をした。
「馬鹿じゃん、お前。休めないのか?」
「休める訳ない……読者が……待ってるんだから……」
自分は思考が回らない頭で、そう言葉を出す。呂律が上手く回らず、視界も回る。
まるで、大酒を飲んだようだ。
「エロ漫画なんだから、一か月待たせろよ。ベタラメな作画のより、質が良いのを求めるだろう」
ただ、話した相手が悪く、空気を読んでくれない。
志摩はしばらくすると、仕事に行き、家に残された自分は、ベッド横にある棚上に手を伸ばす。
置かれている携帯を手に取るが、いつもよりも重く感じる。
(鉛のように重い……)
電話をかけると、担当編集の彼に電話が繋がる。
『編集部の高井です!』
耳をつんざくような音量で、良く言えば元気いっぱいの彼が声を出した。
『今電話しようと思っていたんです!先生、原稿の進行はどうですか!』
「熱出しちゃって、原稿が間に合いそうになくて……」
『どこが間に合わなそうですか?』
担当編集の声色がいつもとは違い、とても淡々としていた。
怒りにくい人が怒りだすと、とても怖いと言うがその通りなのかもしれない。
「その……ペン入れとキャラのトーン貼りは、終わったんだけど、背景トーン貼りが……」
状況を説明し、担当に謝る。
「ご、ごめんね……」
『先生の所、アシスタント付けてなかったですもんね。分かりました、少年誌の先生のアシにお願いできないか、当たってみます』
意外な反応に凄く驚く。
『先生、原稿のデータ、こっちに送れますか?』
「う、うん。本当にごめんね」
『いいんですよ。そういうのは自分の仕事ですから、ゆっくり休んでください』
そう言われ、電話を保留にし、ゾンビのように床を這った。
仕事部屋に辿り着き、原稿のデータを編集部にメールに送付する。
『原稿、確認できました。先生、体調にお気を付けください』
彼はそう言うと、電話を切る。
きっと彼は、ここから大忙しだろう。
彼が話していた少年系の雑誌は、確かにアシスタントは多いが、その分切り詰めており、丁度良く、手が空いていて、快く受け持ってくれる人材が見つかるだろうか。
(背景だけとはいえ、少し心配だな……)
そう思いながら、寝室に戻り、ベッドに横になる。
何気なく見ていた天井が歪み、瞼が重く感じ始め、瞼を閉じる。
*
眠ってから、何時間経過しただろうか。
突然、家のインターホンが鳴る。
(志摩が帰って来たのかな……)
もしかしたら、鍵を忘れたのかもしれない。
そう思い、壁を伝いながら寝室を出る。
廊下を渡り、鍵を開け、玄関を開けた。
そこには、一人のオメガの少年がいた。
小柄な体格、色素が薄い瞳と黒い頭髪。
外から逆光が神々しく、彼の色白い肌と髪を煌めかせていた。
とても尊く、美しい、そんな存在で、自分は最初、実は高熱で死んでいて、天使が自身を迎えに来たのかと思ったくらいだ。
「こんにちは」
大人しめの話し方、少しハスキーな声。
「あの、今お時間とか……」
最初はそんな会話だったと思う。
彼は持っていたトートバックから、子冊子を取り出す。
そして、やっと彼が何者なのか、どうして自分の家にやって来たのか、それを理解した。
彼が持っているものに見覚えがあったのだ。
あの出来事から、十年程経過しているので、表紙のデザインは変わっていたが、書かれている文字に見覚えがある。
『幸福の中の幸福』
(あっ、宗教勧誘だ……)
大学時代、出会ったあのオメガの顔がフラッシュバックする。
自分は逃げたから、幸せになれない。
逃げても、逃げても、試練なのか悩み事は追ってくる。
恋愛も、就活も、目の前のこれも。
そう思った瞬間、体力に限界が来たようで、大きな目眩を起こす。
頭を数回、大きく揺らした後、思いっきり後ろに倒れた。
「だ、大丈夫ですか!しっかり!」
天使の声が遠くで聞こえる。
そして、再び眠りについた。
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