「『君は自分のようになるなよ』?」
自分が聞き返すと、肇はそう言う。
「変だよね?勝手に噛んでおいてさ」
肇は自分の背中に顔を埋め、少しずつ言葉を出す。
「歯形を付けられただけなんだけど、やっぱり気になっちゃうよね……」
その声は細く、元気いっぱいの明るい彼の声とは少し違うように感じる。
「好きな人や気になる人が出来ても、やっぱり実らないというか……付き合えても、浮気されちゃったり、別の人が出来たとかで振られちゃったり……」
普段、明るく振舞っているが、実際は思うところがあり、重い現実に対しての不安はあるようだ。
「でも、そのおかげで仕事は出世したけどね」
ヒートが滅多に来ないからさと、肇はベータの自分に説明する。
「でも、一番ショックだったのは、そうだなぁ……お兄さんに噛まれた事より……」
「――肇君?」
急に無言になったので、先が気になり肇に訊き返すが、耳に届いたのは彼の言葉ではなく、ただの寝息だった。
(寝ちゃった……)
自分は片腕が痺れてきたが、肇が背中に顔を埋めて眠っているので、寝返りが打てずにいる。
(眠れないな……)
肇が小学生の出来事を話したので、自分も色々思い出してしまった。
『結婚したいとかガチじゃん』
『気持ち悪いわ』
子供の頃の苦い記憶が頭を過る。
『実は僕、春島くんにさ――』
オメガとの恋は報われない。
それは分かっているはずなのに、何で自分はこう、自分から関わってしまうのだろう。
でも、この子は、肇君は自分の事を信頼してくれた。苦い記憶を話してくれた。
自分はベータだから、恋愛に発展しないかもしれない。
でも、それでも、大切で清い存在で。
宗教は違うかもしれない。
見えている景色も違うかもしれない。
でも、大切だから。
一緒にいる未来が、例え存在しなくても。
「肇君、自分はね。肇君が望むのなら、その人を探してもいいよ」
肇の鼓動が背中に伝わる。
「一緒に解消して貰えるように、お願いもするよ」
肇ではないので分からないが、その音はとても穏やかで、安心してきたのではないかと、感じた。
「だから、自分の事頼ってきていいよ。甘えていいんだよ」
そう静かに言った。
*
『俺は君の味方だからね』
誰か男性が自分に言った。
彼の顔、表情は見えない。
だがその男性は黒髪で身長が高い。
そして自分の頭を優しく撫でる。
だが、自分は彼が夢の世界の人物で、現実では存在しない人物だと気が付いている。
(久しぶりに良い夢を見てる)
目を細めながら、頷き、そっと瞳を閉じる。
すると、自分の唇に彼の唇が触れた。
その瞬間、目が覚める。
ベッドから起き上がると、隣にまだ眠っているベータの姿があった。
「おはよ、先生」
彼はまだ眠っている。
昨日の件、自分が彼に過去の事を打ち上げた後。
自分は途中で説明が面倒くさくなり、眠ったフリをした。
『肇君、自分はね。肇君が望むのなら、その人を探してもいいよ』
その際、彼が言った言葉がとても嬉しく、夢で出てきた人物が彼だったらなと思う程だった。
「ありがとう。嬉しかったよ」
起こさないように小さな声でそう言い、彼の額に口づけをする。
ベータの事を好きになった事はない為、恋かはまだ分からない。
(けれど、素直に嬉しい)
そう思いながら、再びベッドで横になる。
彼の服に鼻をつけ、匂いを嗅ぐ。
柔軟剤だろうか、石鹸と花の香りがする。
だけど、しっかり男性らしい、体臭が鼻に届く。
(男の人らしい匂いがする……)
当たり前の話なのだろうが、大人しい彼からするのは意外性があった。
後、志摩が吸っている銘柄の煙草の匂いもする。
(ふふふ、匂い移ってる……)
気持ちが浮つく。
(自分はオメガだけど、ベータを好きになってもいいのかな?)
こんな自分に好かれて、迷惑じゃないかなと考えている間に再び、夢の世界に入る。
志摩が起こしに来るまでの数十分間。
その時、見た夢は起きた時に忘れてしまったけれど、それでも幸福な夢で、自分はとても愛おしく感じた。
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